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あんまアニメ観ない僕でも『けものフレンズ』が面白いわけ

小・中学生の頃はまだゴールデンタイムにアニメがバンバンやってたので、毎日のようにアニメを観ていた世代なんだけど、ここ十五年くらいの深夜アニメはまったく観てない。ここ最近で全部観たのは、まどマギとあの花、シュタインズ・ゲートくらい。

そんな僕でも今流行の『けものフレンズ』を大変楽しく観てるので、その辺の理由を書いておこう。

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いつのまにか失われていく風景たち

なんか下のブコメが思わぬ好評を博したので、時節的にも前から書きたかったことをさらっと書いてみる。

【シン・ゴジラ】川崎市長「川崎をめちゃくちゃにしてください」→実際に破壊され映画は大ヒット…フィクションの怪獣に破壊されるのは一種の祭りでもある - Togetterまとめ

ゴジラは毎年「今年は何処を壊すか」が話題の映画だった覚えが。/で、十年後二十年後に見たときにゴジラに「壊された」風景がもう無かったり(=人間が壊してる)するわけですよ。何気ない街並みこそ記録として大事

2017/02/18 01:10

b.hatena.ne.jp

 

この春、卒業や就職で地元から離れる人は、身近なところを写真に撮りまくっておくといいっすよ。自分自身から家族、実家のリビングや自室、玄関先、家の周り、駅のまわり、小中高大学問わず通った学校、通学路、よく行った店などなどなど。

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いい加減はてなは「はてなブックマーク」にフィルタ機能つけろよ(逆ギレ

どうも、おばけのたけです。下記の増田によれば「有名ブクマカー」だそうです。いぇーい、村長、みてるー!! いや見ないでください、ヲチされるの怖いですすみません(((゜д゜)))

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彼女を「殺した」のは僕らではないか。

電通過労死事件がどうにも気になる。
過労死自体は、残念ながらありふれた話だ。
鍵アカになる前にざっと彼女のツイートを読んだ所、ネット馴れした自虐ツイートで、それ故に「もしかしたら何かの拍子で会っていたかも」という親近感が生まれ、どうしようもない衝撃があった。
実際、僕が相互フォローしてる人で、彼女と相互フォローしている人がいた。まあ、僕もその人ともやりとりがあるわけではないので、そんなことを言っていても仕方ないのだが、「六次の隔たり」というが、彼女は思った以上に「すぐそば」にいた。

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長谷川豊の卑劣さ、あるいは今ここにある虐殺の文法(『虐殺器官』のネタバレ)

トルコや北朝鮮のような権力者による粛正=虐殺ではなく、一般市民による虐殺とはどうすれば起きるか。

単純だ、少数派を「殺してもいい」ほど下劣で低俗で卑怯な社会の敵で、生きるに値しない=殺しても良い存在だと憎悪や軽蔑の念を抱かせ、実行させることだ。

今フィリピンで起きているのがまさにそれだ。麻薬犯罪者であれば、殺していい。信じられないことに、この21世紀に今、まさに行われている。

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埼玉県民の東京幻想、あるいは90年代後半の思い出

先日書いた帰るべきばあちゃん家は、もう、ない。が思ったより好評で、なんか昔話を書きたいなーと思っていた所、ちょーど増田の上京して感じたことホッテントリに入っていたので、刺激をうけて埼玉育ちとして、遠き日の東京への憧れを書き連ねてみる。

 

埼玉県で「東ッ京ッゼロッサン〜♪」という日本文化センターのCMを見て育った僕としては、「東京の大学を出て東京の会社に勤める」という人生設計はごく当たり前のこととして、無意識のうちにすり込まれていた。

東京、嗚呼、憧れの都、東京。
何を憧れていたんだろう。
それさえも覚えていないが、テレビを観ても東京の話題ばかり、親も東京の会社に勤めていたし、「俺は東京へ行くんだ」というのは、「普通の人生」であり、あまりにも自明なことだった。

高校受験の時、親から冗談半分で「東京の高校へ行く?」と言われた覚えがあるが、通うのが面倒だったし、なにより行きたい公立高校があったので、東京の高校は一顧だにしなかった。というか、まだ「東京に行くのには速い」と恐れおののいていたのも正直、ある。なお、第一希望の公立は我が中学校から5人受けて、僕だけ落ちた。ふぁっきゅ。
第二志望、第四志望には受かっていたので、第四志望の僻地にある荒れた高校に行かずに済み、僕は埼玉県内の某高校へ進学した。ちなみに第三志望は一緒に受けた友人が先に合格発表を見に行って、電話で「お前落ちてるよ」と言われ、半泣きになりながら確認しに行ったという大変切ない思い出がある。

壮大な失意から始まった高校生活。
小中は持ち上がりだったため、代わり映えしないメンツだったが、さすがに高校はバラバラで、県内各地はもとより、東京から通っている生徒もいた。僕はブラスバンド部に入ったのだが、その部長も王子から通っていた。
下手したら関東圏の人でも「は? プリンスの王子?」と思うかもしれない。東京都北区に、王子という地名があり、京浜東北線の駅があるのだ。王子稲荷神社が有名だ。


あるとき、その部長の家に友人と泊まりに行った。
97年の5月だったと思う。
王子駅までチャリで迎えに来てもらって、10分、15分ほど歩いただろうか。
戸建ての家で2階に先輩の部屋があった。

パソコンが一般家庭に普及するかしないかの、ちょうど過渡期だったと思う。部長はエヴァのCD-ROMを持っていて、それを見せてもらった。たしかラジオドラマも収録されていて、声優が効果音やBGMも演じる回があって『シン・ゴジラ』でも使われたあの戦闘シーンBGMを律儀に「歌う」のだ。「ズン(チャカチャカ)・ズン(チャカチャカ)ズン(チャカチャカ)・ズン(チャカチャカ)ドン・ドン!」。みんなで大爆笑しながら聴いた。

それだけでなく、画像データやらセリフの音声データがわんさか入っているシロモノで、パソコンの壁紙として使うのはもちろんこと、やろうと思えば印刷してちょっとしたポスターにもできるのは、とてつもなく羨ましかった。素材はいくらでもあるから、印刷すれば好きなだけ「公式グッズ」が勝手に作れるのだ。カラーコピーも30円だか50円だかしたころで(今でもそうだろうか)、高校生の少ない小遣いじゃそんないくらもできるもんじゃない(もったいない)。でも家のプリンタなら使い放題だ。
当時GiGSに掲載されていたラルクのロゴを拡大コピーし、うちわに貼り付けて愛用していた僕としては、パソコンさえまだ持っていないのに、何を作ってやろうかと考えるだけでゾクゾクした。


何よりセリフの音声ファイルが良かった。たとえばWindowsの終了音をシンジくんの叫び声にして「うぁあああああああ、動いてよ、今動かなきゃみんな死んじゃうんだ!!!」→Windows終了、なんていう遊びができたりして、ひたすら夢があった。

他にも、当時はまだADSLなんてものはなく、ISDNでテレホタイム(夜11時以降だと電話代が定額になる伝説のサービス)にネットをするのが一般的だったが、ICQか何かを使って遠隔地にいる友人と会話をしたり、合奏をしたりしていて、部長の家は可能性という可能性に溢れた夢のような空間だった。

 

いきなり洋物のモザイクなしのAVを見せられてしまい、純粋な僕としては「うへえ、あんなことするのか」と大変ショックを受けたのも懐かしい。自分がそんなことをするのかというより、ブラバンに好きな子がいたので、「かわいい顔してあの子もこんなことをするのか・・・」と後で思い悩んだ。非常に罪作りな先輩である。なお当時17歳にして18禁のものを観ているが、不可抗力であるし、そこはご容赦頂こう。
メールの送受信も、ICQ(アッオー)を教わったのもその先輩からだった。メールは設定をしたものの、最初は使い方がわからず、送ってもらってから3ヶ月後に気がついたのは、今となっては良い思い出だ。

 

話を戻そう。
あれやこれやパソコン自慢をされ素直に感激した後、「深夜ラーメンに行くぞ!」と連れて行かれたのが、巣鴨にある千石自慢ラーメンだった。

20分くらい走っただろうか。
夜中なので当然店は閉まっていて、コンビニがたまにあいているくらいだったが、それでも東京の商店街どこまでいっても終わらず、街灯がついていてた。地元の駅前の商店街はすぐに寂れてしまうので、それが衝撃的だった。今から思えば国道17号線をずっと走っていたのだろうから、当然と言えば当然だが、「さすが東京!」と暗闇に包まれることのない街並みに衝撃を受けた。

ラーメン屋に着いてからも凄かった。夜中に食べに行くのはもちろん、立ち食いラーメンというのも初めてだし、しかも夜中なのに混んでいた。食券を買ってから、10分くらい待たされただろうか。
背脂系の店で、「見た目はちょっとグロいから、人によってはダメかも」と部長が言ったラーメンは、まだ少し寒い五月の夜中、五臓六腑にしみいるほど、とんでもなく美味かった。
そのときは店名を覚えていなかったのだが、自転車旅行をしていたときにたまたま見つけ、大学時代もデートで六義園へい行きがてら、食べに行った。数年前にも友人らと10年ぶりくらいに行った所、今では内装・外装ともにリニューアルしてあり、座って食べられるようになっていたが、変わらない美味さだった。

 

大学は東京の某私大を出て、紆余曲折を経て今では憧れの東京に住んでいる。
東京(というか、都会)はひたすら変化するものだなぁというのが、実感だ。いつもどこかで建築工事をしている。大学の頃から愛用していた新宿も、かなり変わってしまった。いつか一度は社会勉強として行ってみたいと思っていた新宿国際劇場もいつのまにか綺麗さっぱり潰れてしまった。
今の渋谷の駅前が一番わかりやすいだろう。駅前は工事だらけ。東急もなくなり、まったく新しい土地へと変貌しようとしている。一時期渋谷の道玄坂近くの会社に勤めていたが、気がつくと新しい店ができている。ひたすら新陳代謝を繰り替えし、挫折と希望を生み出す街。
オリンピックに向けて、まだまだ東京は変容を遂げていくのだろう。
そんな東京の中で、僕はどれだけ変われるのか。今の家には6年ほど住んでいるが、周りが結婚したり子供ができたりするなか、変わり映えのない生活に不安になってばかりだ。もちろん、悪い方向に変わっていないだけマシなのだが。

 

会いに行ける都市伝説『私の志集』の人は、先日も新宿のあの場所に立っていた。
千石自慢ラーメンも変わらない美味さだった。ひたすら変化しつつ夜も輝き続ける東京で、陰ではないが、変わらない部分もある。変えるべき所と、変えてはいけない所をうまく見極めて、抜け毛が気になる今日この頃、頭部に輝きを増す前に独り身を卒業したいです。 

帰るべきばあちゃん家は、もう、ない。

おばあちゃん家の臭いの正体は何?を読んで、懐かしくなったので書いてみよう。

一日遅れの夏休みの日記だ。いまはもうない、祖母の家。

 


両親の実家が福岡で、子供の頃は二年に一度ほど、夏休みに新幹線で母方の実家へ帰省していた。
新幹線、西鉄、そしてバスを乗り継いでようやくたどり着く。

 

玄関から入ったとたん、独特のにおいがしていた気がする。
線香と古い家と、老人たちの暮らす家のにおい。
母方の祖母・祖父と、曾祖母の三人で暮らしていた。
古い一軒家で、引き戸の玄関の左手には、縁側があっただろうか。
左側は祖父の部屋で、オセロや将棋を教えてもらったり、何故か模造刀をもらって扱い方の講釈を受けた覚えがある。マッチ棒で工作をするのが得意な人で、いくつも作品を作っていた。ちょっとした箱やビー玉を転がす迷路のようなものから、たくさん見せてもらった。今でも祖父がマッチ棒で作った10センチくらいの小屋は、大切にとってある。
他にも祖父の部屋には革張りでローラーが表に出ているタイプの古いマッサージ器があり、「怪我しないいように!」と注意されながらも、マッサージ器で遊んでいた。

 

玄関から入って右手の六畳くらいの部屋が祖母の部屋で、テレビがあり、ファミコンができた。もちろん祖母がするわけではなく、僕ら孫が来たときに遊べるように、だ。
祖母は特に厚化粧というわけではなかったと思うが、少し化粧臭かった気もする。三面鏡と化粧道具があったから、そういうイメージが強かったのかもしれない。ただ、そのにおいは嫌いではなかった。

 

その奥に四畳半ほどの細長い部屋が、曾祖母の部屋だった。
いつもカーテンを締め切っていて薄暗かったせいか、腰が曲がった曾祖母は洞窟から出てくる老仙女のようなイメージがあった。家の中央にあるわりには異質な空間で、開かずの間というわけでは内が、禁忌を思わせる部屋だった。曾祖母は特に病気をしていたわけではなかったと思うが、あまり表に出てくることはなく、寝たきりというと言葉が悪いが、ほとんど部屋に引っ込んでいた。たまに出てくると、お小遣いをくれた。

 

一番奥は二十畳くらいあっただろうか、わりと広めの居間で、仏壇が飾ってあった。
僕らや親戚らが夏休みに遊びにくると、夜はそこで雑魚寝というのが定番のコースだった。
そこからギシギシきしむ廊下を進めば、ぼっとん便所。
横に小さな庭があり、昼間でも糞尿と木のにおいが混じって妙な静寂に包まれた場所だったが、夜には庭から何かが出そうな雰囲気があった。

 

帰省をすると、居間で線香を上げ、六畳あっただろうか、祖父母に母、妹、僕の五人が入ると狭く感じる正方形に近いお茶の間で、掘りごたつを囲んで、近所の中華料理屋からラーメンの出前を頼む。その間にお茶の間の柱に身長を刻んだ。
いとこの身長も残してあって、いとこらは福岡に住んでいる分、彼らの記録の方が多かった気がする。埼玉に住む僕らがいない間に来ているいとこたちに、ほのかに嫉妬を覚えた。


そうこうしているうちに、東京の醤油ラーメンと違い、真っ白なスープのとんこつラーメンがラップで包まれて届く。
スープの蒸気がラップについていくつも垂れているのが面白かった。
今でこそ何かとつけてはラーメンを食べているが、子供のころは外食をする家ではなかったし、ラーメンを食べる機会もあまりなかった。ラップを外して食べるとんこつラーメンは何よりのご馳走だった。
後年、母に聴いたら、祖母はあまり料理が上手くなかったので出前をっていたということだが、それもご愛敬。僕も妹もよく食べる子だったが、初日のラーメン以外でも、特に食事で困った覚えはない。
むしろ父方の実家の方で、山盛りの天ぷらが出たもののべちょべちょで、どうにも困り、残した覚えがある。
母は父方の実家とあまりそりがあわなかったし、僕自身もあまり良い印象がない。

 

 

僕の大学の合格発表の前日に、祖母は亡くなった。
その前から多少入院などあったそうだが、突然発作が起き、すぐだった。
僕にとって初めての葬式だった。高校の三年間、帰省できなかったが、久々に見る祖父は小さくなっていた。
祖父母は、遠くにいて、たまに会いに行く人。「いない」のが日常の人。
そこにいない祖母よりも、小さくなった祖父の姿に、胸が締め付けられた。

 

祖母から年に一、二度、段ボールで荷物が届いて、うまかっちゃんが入っているのが嬉しかった。何故か一度だけ月刊の方の少年ジャンプが入っていた。おそらく「子供に人気があるから」と送ってくれたのだろうが、「うーん、おばあちゃん、みんなが読んでるのは月刊じゃないんだよ」と子供ながらに困惑した(が、楽しく読んだ。たしか眠兎の第一話が掲載されている号だったと思う)。


僕が中学生くらいの頃に、祖母だけ東京へきたことがあって、僕が遊びに行くと言ったら小遣いをくれた。大した意味はなかったと思う。おそらく僕に孫ができても、そうするだろう。でも、その当時は何故か「金をあげるくらいしか孫とのつきあい方がわからないんだろうな」と妙に複雑な思いを抱いた(面倒臭い子供だ)。かといって、どう接すれば良いのか、どう甘えればいいのか、わからなかった。お小遣いはありがたく使わせてもらって、古本に消えた。

 

博多弁がかわいらしい、ふつうの、やさしいおばあちゃんだった。

 

祖母が入った棺に石で釘を打たされた時には、あまりに残酷な訣別の仕方に涙が溢れそうになった。
祖母の葬式の時、孫の中では僕が年長だったので、火葬場には行かず、誰か挨拶に来るといけないからということで留守番を任された。
祖父から「お前は口の中でモゴモゴ言うから、人がきたらしっかり話すんだぞ」と博多弁で強めに言われ、よく僕の悪いクセを覚えているなと感心半ば、呆れたのをよく覚えている。肉親とは恐ろしいものである。じいちゃん、ごめんよ、俺はいまだに吃音気味なんだ(声のボリュームが大きい人が苦手で、自分がうるさいとイヤなので、あまり大きな声を出したくないのだ)。


祖母が亡くなって数年すると、祖父は老人ホームへ入り、家は取り壊された。祖母の形見分けもだが、家の思い出となるようなものも特に残っていない。もちろん僕らの身長を記録した柱も、廃材となって処分されただろう。うちはあまり写真を撮る家ではなかったので、写真もほとんどないだろう。

記憶の中にしかない、家。

せめて年々薄れていく記憶を、少しでも書き残しておきたくて、久々にブログを書いてみた。


祖父はまだ健在だ。94、5歳になるんじゃないだろうか。
まだマッチ棒でおもちゃを作っていたら、新作をもらいたい。