ハラスメントの時代と表現の自由

ルミネのCMの件が盛大に炎上してます(というかわりと鎮火したから過去形であるべきか)。

昨年末あたりからベイマックス絡みで「ポリティカル・コレクトネス」という用語を知って、まさにこれか、とさっそくPC絡みの炎上案件を目の当たりにしたわけですが。

 

今日また「おわハラ」なんて用語を知って、「えー、あー、はい」みたいな感想を持ったんだけど、というのは「ハラスメント」という言葉があまりにキャッチーになりすぎていて、内実はともあれ、「なんだかなぁ」と思わざるを得ないのがあります。

セクハラから始まって、パワハラ、マタハラ、アカハラアルハラ、とりあえず「○○ハラ」といっておけばいいだろう的な勢いさえある「○○ハラ」ですが、なんでもヘタすりゃハラスメントの時代だなぁと痛感すると共に、それだけ世の中には悪意が満ちあふれているのかと、わりとガクブルせざるをえません。

 

公平とか平等、というのはなかなか難しいもんでしょうが、それでもやはり感情に惑わされずに客観視するための基準として、持っておかなければいけないモノサシだと思います。

社会的に、上司と部下・発注先と下請、個人なら親子、夫婦など、どうしてもマウンティングしたくなる場面があるのはわからなくはないのですが、公平性という以上に、相手を無闇に貶めるという言動は今後忌み嫌われていくんだろうとなぁというのが、今回強く感じました。というか、ルミネのCMは2015年にほんとあり得ないんだけど。

 

ちょっと話が飛ぶけと、つかこうへいの『蒲田行進曲 銀ちゃんが逝く』なんかは差別用語がバンバン出て来て、とてもじゃないけどテレビじゃ放映できないんだけど、あれって差別用語がちゃんと作中の必然性があって出てきてて、使われ方が非常に効果的。差別を肯定的に描くんじゃなくて、差別がある中でどう生きるかというその姿勢を肯定的に描いてるから、ちゃんと差別用語が出てこないと、それが成立しない。

 

『境界のないセカイ』についても、あの1ページだけでもちゃんと文脈が発生してるわけで、あのページだけでもあの発言を肯定的に扱ってるわけではないというのは理解されて然るべきだと思うんだけど、講談社側の自主規制は何ハラっていうんですかね。

ちょうどジョジョにアニメも、未成年の喫煙シーンで口元が黒くなったりと(たまたまリアルタイムで観てたけど意味がわからなかった・・・!)、妙な自主規制が出てて、短い期間に表現の自由の在り方が面白い事になってるんですが、ルミネ、『境界のないセカイ』、ジョジョ、「表現の自由」という切り口で見ると同じように見えますが、それぞれまったく別個の根のある問題なので、ちゃんと切り分けて注視していきたいもんです。

少なくとも、誰かを不用意に「落とす」ことを肯定的に描く表現は、今の時代危ういなあというのが今回の結論です。