漢文廃止論や「謙虚アピール」に200億が出る「現実」の前に、「表現」は無力なのではないか。
筒井御大が炎上している。
火浦功経由で中・高校の頃少し読んだので、作風について多少は知っているし、断筆宣言の時は『ゴーマニズム宣言』でも話題になっていたので、当時の空気感はうっすら覚えている。
筒井康隆をもってしても、2017年の日本では、「社会的なタブーをあえて破る表現」ってのは、相当難しくなってるじゃないだろうか。
今風にいえばポリコレ案件なんだろが、そもそも「現実」の方がよっぽど建前を壊すわ、「忖度」をするわ、「現実は小説より奇なり」を地で行っていて、フィクションよりよっぽど「過激」なのだ。そこに今更「表現としての過激さ」をぶっこんでも、たいした衝撃を与えられず、むしろ明後日の方向に爆発するだけだろう。
立て続けに起きてて興味深いんだけど、百田大先生の「漢文廃止論」(ツイートは4月4日)とか、
またくだらぬ雑誌を買ってしまった pic.twitter.com/6wZ5R3ZIOz
— 早川タダノリ (@hayakawa2600) 2017年4月4日
虚構新聞の謝罪(4月6日)とか、
前者もまっとうな頭を持っていれば、こんな愚論そもそも没だろうと思うのだが、SAPIOは喜んで掲載しているし、後者もありえない前提で書いていることが、2年越しに現実と化してしまっている。
筒井御大は今回の発言(今は削除されているが、正確には元々はブログの一部で、それをツイートしたものがTwitterで炎上した)を「ブラック・ユーモア」と仰るかもしれないが、上記2つの例の方が、よっぽどブラックな現実で、そして、笑えない。まして、ちょっとTwitterで検索すれば、今回問題になったのより激しいヘイトが満ちあふれている。
昨年は『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』のように、現実を綿密に取材し再現したフィクションが流行り、ポケモンGOというAR=現実と虚構を混ぜ合わせるゲームが世界的大ブームを起こし、芸能界でも「ゲス不倫」やSMAPの「公開処刑」・解散など、本音と建前、現実と虚構の境界線が次々壊れていった。
その中でトランプが大統領になり、「ポリコレ疲れ」なんて言葉が出てきた。ポリコレはいわば「建前」だろう。「差別はいけませんよ」というのは誰でも理解できる。しかし「逆差別」や「在日特権」という言葉のように、「差別される側の方が実は優遇されている」という怨念や日常への不満が、たとえばアメリカではトランプを産んだ。
フィクションが如何に強固な現実によって裏打ちされなければウケないかというのは、『けものフレンズ』ブームも証明しているだろう。建前という「虚構」をぶち破って過激な本音が平気で飛び交う2017年の日本では、よっぽど強固な「現実」で武装しない限り、表現は、特にブラック・ユーモアは成り立たないのではないだろうか。
ブラック・ユーモアはタブーが守られていることで、初めて成立する。しかしブラック・ユーモアが空けるべく風穴は、すでに現実によって空けられているのだから。