帰るべきばあちゃん家は、もう、ない。

おばあちゃん家の臭いの正体は何?を読んで、懐かしくなったので書いてみよう。

一日遅れの夏休みの日記だ。いまはもうない、祖母の家。

 


両親の実家が福岡で、子供の頃は二年に一度ほど、夏休みに新幹線で母方の実家へ帰省していた。
新幹線、西鉄、そしてバスを乗り継いでようやくたどり着く。

 

玄関から入ったとたん、独特のにおいがしていた気がする。
線香と古い家と、老人たちの暮らす家のにおい。
母方の祖母・祖父と、曾祖母の三人で暮らしていた。
古い一軒家で、引き戸の玄関の左手には、縁側があっただろうか。
左側は祖父の部屋で、オセロや将棋を教えてもらったり、何故か模造刀をもらって扱い方の講釈を受けた覚えがある。マッチ棒で工作をするのが得意な人で、いくつも作品を作っていた。ちょっとした箱やビー玉を転がす迷路のようなものから、たくさん見せてもらった。今でも祖父がマッチ棒で作った10センチくらいの小屋は、大切にとってある。
他にも祖父の部屋には革張りでローラーが表に出ているタイプの古いマッサージ器があり、「怪我しないいように!」と注意されながらも、マッサージ器で遊んでいた。

 

玄関から入って右手の六畳くらいの部屋が祖母の部屋で、テレビがあり、ファミコンができた。もちろん祖母がするわけではなく、僕ら孫が来たときに遊べるように、だ。
祖母は特に厚化粧というわけではなかったと思うが、少し化粧臭かった気もする。三面鏡と化粧道具があったから、そういうイメージが強かったのかもしれない。ただ、そのにおいは嫌いではなかった。

 

その奥に四畳半ほどの細長い部屋が、曾祖母の部屋だった。
いつもカーテンを締め切っていて薄暗かったせいか、腰が曲がった曾祖母は洞窟から出てくる老仙女のようなイメージがあった。家の中央にあるわりには異質な空間で、開かずの間というわけでは内が、禁忌を思わせる部屋だった。曾祖母は特に病気をしていたわけではなかったと思うが、あまり表に出てくることはなく、寝たきりというと言葉が悪いが、ほとんど部屋に引っ込んでいた。たまに出てくると、お小遣いをくれた。

 

一番奥は二十畳くらいあっただろうか、わりと広めの居間で、仏壇が飾ってあった。
僕らや親戚らが夏休みに遊びにくると、夜はそこで雑魚寝というのが定番のコースだった。
そこからギシギシきしむ廊下を進めば、ぼっとん便所。
横に小さな庭があり、昼間でも糞尿と木のにおいが混じって妙な静寂に包まれた場所だったが、夜には庭から何かが出そうな雰囲気があった。

 

帰省をすると、居間で線香を上げ、六畳あっただろうか、祖父母に母、妹、僕の五人が入ると狭く感じる正方形に近いお茶の間で、掘りごたつを囲んで、近所の中華料理屋からラーメンの出前を頼む。その間にお茶の間の柱に身長を刻んだ。
いとこの身長も残してあって、いとこらは福岡に住んでいる分、彼らの記録の方が多かった気がする。埼玉に住む僕らがいない間に来ているいとこたちに、ほのかに嫉妬を覚えた。


そうこうしているうちに、東京の醤油ラーメンと違い、真っ白なスープのとんこつラーメンがラップで包まれて届く。
スープの蒸気がラップについていくつも垂れているのが面白かった。
今でこそ何かとつけてはラーメンを食べているが、子供のころは外食をする家ではなかったし、ラーメンを食べる機会もあまりなかった。ラップを外して食べるとんこつラーメンは何よりのご馳走だった。
後年、母に聴いたら、祖母はあまり料理が上手くなかったので出前をっていたということだが、それもご愛敬。僕も妹もよく食べる子だったが、初日のラーメン以外でも、特に食事で困った覚えはない。
むしろ父方の実家の方で、山盛りの天ぷらが出たもののべちょべちょで、どうにも困り、残した覚えがある。
母は父方の実家とあまりそりがあわなかったし、僕自身もあまり良い印象がない。

 

 

僕の大学の合格発表の前日に、祖母は亡くなった。
その前から多少入院などあったそうだが、突然発作が起き、すぐだった。
僕にとって初めての葬式だった。高校の三年間、帰省できなかったが、久々に見る祖父は小さくなっていた。
祖父母は、遠くにいて、たまに会いに行く人。「いない」のが日常の人。
そこにいない祖母よりも、小さくなった祖父の姿に、胸が締め付けられた。

 

祖母から年に一、二度、段ボールで荷物が届いて、うまかっちゃんが入っているのが嬉しかった。何故か一度だけ月刊の方の少年ジャンプが入っていた。おそらく「子供に人気があるから」と送ってくれたのだろうが、「うーん、おばあちゃん、みんなが読んでるのは月刊じゃないんだよ」と子供ながらに困惑した(が、楽しく読んだ。たしか眠兎の第一話が掲載されている号だったと思う)。


僕が中学生くらいの頃に、祖母だけ東京へきたことがあって、僕が遊びに行くと言ったら小遣いをくれた。大した意味はなかったと思う。おそらく僕に孫ができても、そうするだろう。でも、その当時は何故か「金をあげるくらいしか孫とのつきあい方がわからないんだろうな」と妙に複雑な思いを抱いた(面倒臭い子供だ)。かといって、どう接すれば良いのか、どう甘えればいいのか、わからなかった。お小遣いはありがたく使わせてもらって、古本に消えた。

 

博多弁がかわいらしい、ふつうの、やさしいおばあちゃんだった。

 

祖母が入った棺に石で釘を打たされた時には、あまりに残酷な訣別の仕方に涙が溢れそうになった。
祖母の葬式の時、孫の中では僕が年長だったので、火葬場には行かず、誰か挨拶に来るといけないからということで留守番を任された。
祖父から「お前は口の中でモゴモゴ言うから、人がきたらしっかり話すんだぞ」と博多弁で強めに言われ、よく僕の悪いクセを覚えているなと感心半ば、呆れたのをよく覚えている。肉親とは恐ろしいものである。じいちゃん、ごめんよ、俺はいまだに吃音気味なんだ(声のボリュームが大きい人が苦手で、自分がうるさいとイヤなので、あまり大きな声を出したくないのだ)。


祖母が亡くなって数年すると、祖父は老人ホームへ入り、家は取り壊された。祖母の形見分けもだが、家の思い出となるようなものも特に残っていない。もちろん僕らの身長を記録した柱も、廃材となって処分されただろう。うちはあまり写真を撮る家ではなかったので、写真もほとんどないだろう。

記憶の中にしかない、家。

せめて年々薄れていく記憶を、少しでも書き残しておきたくて、久々にブログを書いてみた。


祖父はまだ健在だ。94、5歳になるんじゃないだろうか。
まだマッチ棒でおもちゃを作っていたら、新作をもらいたい。