埼玉県民の東京幻想、あるいは90年代後半の思い出

先日書いた帰るべきばあちゃん家は、もう、ない。が思ったより好評で、なんか昔話を書きたいなーと思っていた所、ちょーど増田の上京して感じたことホッテントリに入っていたので、刺激をうけて埼玉育ちとして、遠き日の東京への憧れを書き連ねてみる。

 

埼玉県で「東ッ京ッゼロッサン〜♪」という日本文化センターのCMを見て育った僕としては、「東京の大学を出て東京の会社に勤める」という人生設計はごく当たり前のこととして、無意識のうちにすり込まれていた。

東京、嗚呼、憧れの都、東京。
何を憧れていたんだろう。
それさえも覚えていないが、テレビを観ても東京の話題ばかり、親も東京の会社に勤めていたし、「俺は東京へ行くんだ」というのは、「普通の人生」であり、あまりにも自明なことだった。

高校受験の時、親から冗談半分で「東京の高校へ行く?」と言われた覚えがあるが、通うのが面倒だったし、なにより行きたい公立高校があったので、東京の高校は一顧だにしなかった。というか、まだ「東京に行くのには速い」と恐れおののいていたのも正直、ある。なお、第一希望の公立は我が中学校から5人受けて、僕だけ落ちた。ふぁっきゅ。
第二志望、第四志望には受かっていたので、第四志望の僻地にある荒れた高校に行かずに済み、僕は埼玉県内の某高校へ進学した。ちなみに第三志望は一緒に受けた友人が先に合格発表を見に行って、電話で「お前落ちてるよ」と言われ、半泣きになりながら確認しに行ったという大変切ない思い出がある。

壮大な失意から始まった高校生活。
小中は持ち上がりだったため、代わり映えしないメンツだったが、さすがに高校はバラバラで、県内各地はもとより、東京から通っている生徒もいた。僕はブラスバンド部に入ったのだが、その部長も王子から通っていた。
下手したら関東圏の人でも「は? プリンスの王子?」と思うかもしれない。東京都北区に、王子という地名があり、京浜東北線の駅があるのだ。王子稲荷神社が有名だ。


あるとき、その部長の家に友人と泊まりに行った。
97年の5月だったと思う。
王子駅までチャリで迎えに来てもらって、10分、15分ほど歩いただろうか。
戸建ての家で2階に先輩の部屋があった。

パソコンが一般家庭に普及するかしないかの、ちょうど過渡期だったと思う。部長はエヴァのCD-ROMを持っていて、それを見せてもらった。たしかラジオドラマも収録されていて、声優が効果音やBGMも演じる回があって『シン・ゴジラ』でも使われたあの戦闘シーンBGMを律儀に「歌う」のだ。「ズン(チャカチャカ)・ズン(チャカチャカ)ズン(チャカチャカ)・ズン(チャカチャカ)ドン・ドン!」。みんなで大爆笑しながら聴いた。

それだけでなく、画像データやらセリフの音声データがわんさか入っているシロモノで、パソコンの壁紙として使うのはもちろんこと、やろうと思えば印刷してちょっとしたポスターにもできるのは、とてつもなく羨ましかった。素材はいくらでもあるから、印刷すれば好きなだけ「公式グッズ」が勝手に作れるのだ。カラーコピーも30円だか50円だかしたころで(今でもそうだろうか)、高校生の少ない小遣いじゃそんないくらもできるもんじゃない(もったいない)。でも家のプリンタなら使い放題だ。
当時GiGSに掲載されていたラルクのロゴを拡大コピーし、うちわに貼り付けて愛用していた僕としては、パソコンさえまだ持っていないのに、何を作ってやろうかと考えるだけでゾクゾクした。


何よりセリフの音声ファイルが良かった。たとえばWindowsの終了音をシンジくんの叫び声にして「うぁあああああああ、動いてよ、今動かなきゃみんな死んじゃうんだ!!!」→Windows終了、なんていう遊びができたりして、ひたすら夢があった。

他にも、当時はまだADSLなんてものはなく、ISDNでテレホタイム(夜11時以降だと電話代が定額になる伝説のサービス)にネットをするのが一般的だったが、ICQか何かを使って遠隔地にいる友人と会話をしたり、合奏をしたりしていて、部長の家は可能性という可能性に溢れた夢のような空間だった。

 

いきなり洋物のモザイクなしのAVを見せられてしまい、純粋な僕としては「うへえ、あんなことするのか」と大変ショックを受けたのも懐かしい。自分がそんなことをするのかというより、ブラバンに好きな子がいたので、「かわいい顔してあの子もこんなことをするのか・・・」と後で思い悩んだ。非常に罪作りな先輩である。なお当時17歳にして18禁のものを観ているが、不可抗力であるし、そこはご容赦頂こう。
メールの送受信も、ICQ(アッオー)を教わったのもその先輩からだった。メールは設定をしたものの、最初は使い方がわからず、送ってもらってから3ヶ月後に気がついたのは、今となっては良い思い出だ。

 

話を戻そう。
あれやこれやパソコン自慢をされ素直に感激した後、「深夜ラーメンに行くぞ!」と連れて行かれたのが、巣鴨にある千石自慢ラーメンだった。

20分くらい走っただろうか。
夜中なので当然店は閉まっていて、コンビニがたまにあいているくらいだったが、それでも東京の商店街どこまでいっても終わらず、街灯がついていてた。地元の駅前の商店街はすぐに寂れてしまうので、それが衝撃的だった。今から思えば国道17号線をずっと走っていたのだろうから、当然と言えば当然だが、「さすが東京!」と暗闇に包まれることのない街並みに衝撃を受けた。

ラーメン屋に着いてからも凄かった。夜中に食べに行くのはもちろん、立ち食いラーメンというのも初めてだし、しかも夜中なのに混んでいた。食券を買ってから、10分くらい待たされただろうか。
背脂系の店で、「見た目はちょっとグロいから、人によってはダメかも」と部長が言ったラーメンは、まだ少し寒い五月の夜中、五臓六腑にしみいるほど、とんでもなく美味かった。
そのときは店名を覚えていなかったのだが、自転車旅行をしていたときにたまたま見つけ、大学時代もデートで六義園へい行きがてら、食べに行った。数年前にも友人らと10年ぶりくらいに行った所、今では内装・外装ともにリニューアルしてあり、座って食べられるようになっていたが、変わらない美味さだった。

 

大学は東京の某私大を出て、紆余曲折を経て今では憧れの東京に住んでいる。
東京(というか、都会)はひたすら変化するものだなぁというのが、実感だ。いつもどこかで建築工事をしている。大学の頃から愛用していた新宿も、かなり変わってしまった。いつか一度は社会勉強として行ってみたいと思っていた新宿国際劇場もいつのまにか綺麗さっぱり潰れてしまった。
今の渋谷の駅前が一番わかりやすいだろう。駅前は工事だらけ。東急もなくなり、まったく新しい土地へと変貌しようとしている。一時期渋谷の道玄坂近くの会社に勤めていたが、気がつくと新しい店ができている。ひたすら新陳代謝を繰り替えし、挫折と希望を生み出す街。
オリンピックに向けて、まだまだ東京は変容を遂げていくのだろう。
そんな東京の中で、僕はどれだけ変われるのか。今の家には6年ほど住んでいるが、周りが結婚したり子供ができたりするなか、変わり映えのない生活に不安になってばかりだ。もちろん、悪い方向に変わっていないだけマシなのだが。

 

会いに行ける都市伝説『私の志集』の人は、先日も新宿のあの場所に立っていた。
千石自慢ラーメンも変わらない美味さだった。ひたすら変化しつつ夜も輝き続ける東京で、陰ではないが、変わらない部分もある。変えるべき所と、変えてはいけない所をうまく見極めて、抜け毛が気になる今日この頃、頭部に輝きを増す前に独り身を卒業したいです。